歌は何処から
:「歌は人」でいいのか(松村正直):についてふと思ったこと。
時評には、
①「作品は作品として自立しているのであって、作者の人生とは関係ない」
②「作品と作者が不即不離の関係にある」
という二つの考え方がある(佐藤道雅「いりの舎」うた新聞十月号より)こと、
佐藤道雅や小池光のようなベテラン歌人は、かつては①の考えを是としていたと思われるが、最近は②への変化がみられることに、筆者(松村)は戸惑いを覚えているということ、
そして、これらが短歌の本質に迫る話であるならもっと丁寧な説明が必要である、と述べられていた。
ぼつぼつ短歌を続けている私などが、立ち入る話ではないかもしれないが、自分のブログに呟くくらいならいいだろう。
これは、根も葉もない呟きである。
歌はいつも自分の外側からやってくる。
時を選ばず、場所を選ばず、ふいに訪れる。音・連れる、ように。
一番困るのは運転中で、書きとめることができなくて、停車した時には、ああ・・・忘れちゃったというようなことも、まま、ある。(T_T)
とにかく、考えて詠みました、とか、作りました、というのは第二段階で、何処かからやってくるのが始まり。
それは突然で、予測できない。
そんなこというけど、あなたの歌は、自分の生活に関わることがほとんどでしょ、といわれそうだ。
しかし、それは、おそらく、私という存在を使って言葉になるべきもの、なりたいものがやってくるんだろうとしか、思えない。
外からやってきたものを、なんとか、自分が思う最上のものにしようとする過程で、自分の内面と繋がっていくのではないか。
いずれにしても、自分が思う最上のものにする腕を磨かなくてはいけないんだけど。
(まだ磨けてはいないけど(・_・;)。ざんねん。)