TokoTokoChihoChiho’s diary

短歌と短文、たまに長文、書いてます。りとむ短歌会会員 りとむ短歌会ホームぺージ https://sites.google.com/view/rtmtankakai/

閉じられた門

小さな子どもたちを狙った卑劣で残虐な事件から25年。

あの日の北摂はヘリコプターの音で引っ掻き回されているようだった。

あの事件を思い出すたびにいいようもない憤りと共に、割り切れない思いが甦る。もちろん、被害者家族の苦しみには及ぶべくもないけれど。

 

事件の前まで、地域の学校の門はいつも開かれていた。地域の人々がいつでも訪ねて来られるように、学校と地域との繋がりが密になるように、地域の人たちにとってかけがえのない場所であるように、そういう思いからなのだと聞いたことがある。

 

娘が地域の小学校の養護学級に入ったころ、学校の門は開かれていた。

同じ学齢で他の学校の養護学級に入った男の子がいた。幼稚園の時に知り合った彼は、自閉傾向で多動だった。

彼のお母さんと街で出会ったある日、彼女は小学校への不満を口にした。

「登下校以外は、学校の門を閉めてほしいとお願いしたのに、聞いてもらえない。多動だから、目を離すと何処にいってしまうかと、心配でならない。この前も抜け出したことがあった。たまたますぐに見つかったけど。」と。

校長先生は「地域に開かれた学校なのです。門は閉められません」と仰ったとか。

不安を抱えたままの学校生活がその後どうなったのかはわからない。

 

しかし、あの凄惨きわまりない事件後、ほとんどの学校は門を閉じた。見張り小屋を建てたり、ガードマンが配置されたところもある。

 

多動という障害をもった男の子の安全のためには閉じられなかった門は、多くの犠牲者を出して、ようやく閉じられた。

 

極悪は犯罪者。信じ難い犯罪を犯したものが最悪。

それは動かしがたいことだが、

時間差で、

「閉じられなかった門」と「閉じられた門」が存在したことが、記憶のなかで嫌な音をたてる。

 

点毎歌壇より

てさぐりで おちばの なかに ふきのとう これぞ はるはる この あじ かおり                                                                                                                           北川忠司
 
点字毎日、点毎歌壇の選者である真中朋久さんのFaceBookへの投稿より。

 

心身の疲れがふうっと抜けてゆくような春の歌。

記憶のなかのふきのとうの味や香りもよみがえる。

奥深い山中の湧水をいただいたような味わいだ。

 

考えて考えて意を探るような歌も、それはそれで良いのだろうけれど。そういう歌に少し疲れた今日このごろ。

壇上からおめでとう~

先日、夫の付き添いで某イベント及び表彰式に出席しました。

文化芸術部門での受賞ということだったのですが、行ってみればそこに名前がない。??? 結局、教育部門での受賞になっていました。そのあたりから、「もう、かえろか」と言い出す始末。

 

式が始まると、明らかに不機嫌になっていきました。

散会となるやいなや「出席するんじゃなかった。」と。もともと辞退するつもりだったのを、「まあ、記念だから頂いておけば」と言ったのは私なので、申し訳ない気分。

 

各部門ごとに、たくさん受賞者がおられるのですが、表彰される代表者を除いた皆さんは客席。壇上には、市議会府議会国会議員代理などなど。壇上から下を眺めて「おめでとうございます~」というわけです。

 

受賞歴数少ない私ですが、常識的にみて、これは??と思う構図でした。

参加人数が多いのでいたしかたないとはいえ、「高い所から失礼します」と言った人もひとりとしていらっしゃいませんでした。

 

これは、「御上が下々に与える」という設定、というのがありあり。

なんだか、議員の顔見せのためのイベント。。。

 

「きっぱり辞退するべきだったよね。」と、話しつつ、十数年ぶりに、十三(じゅうそう)に寄って、ねぎ焼きを食べて帰りました。

 

久しぶりのねぎ焼き、ああ美味しかった。ということで、良き日となりました。

古井戸さん

ほんとにもう、ろんぐろんぐあごー、といえるくらい前。

 

友達に連れられてコンサートというものに行った。初めてのことだった。友達はコンサート慣れしていて、当日も段取りよく案内してくれた。

 

初めて参加のコンサート。

アーティストは「古井戸」さんだった。泉谷しげるさんも一緒。

泉谷さんのトークは、13歳の私には、ついていけなかった(('◇')ゞ今ならともかく)

でも「古井戸」の歌は、今も耳に残っている。

そして、最近とくにコダマする。

 

大学ノートの裏表紙に◎◎◎ちゃんと描いたの・・・

・・・・

でも鉛筆で描いたからいつの間にか消えたの

もう会えないの  二度と会えないのーーー

 

とか、ひそと歌いながら、〈会えなくていいわ〉と思うのである。

 

今日、あらためて歌詞を調べて、驚いた。

 

四番目

大学ノートの おもて表紙に自分(ボク)を描いているのだ。

ボクは「おもて」に描く!

 

大学ノートのおもて表紙に
ボクを描いたの
一日中かかって
いっしょうけんめい描いたの
あんまり素敵だから
消すのはもったいないの
大学ノートのおもて表紙に
ボクは消えないの
ぜったい消えないの ぜったい消えないの
ぜったい消えないの

 

ボクはあんまり素敵だから(すごい!自己肯定)

消さない。

消すのはもったいない、と。

 

素晴らしい。

軽い感じの歌詞だけど、

とことん自分について考えた青年の姿があると思えた。

「自分」を消してはいけない。流されてはいけない。誰かに「自分」を乗っ取られてはいけない。

 

で、ふと、どこかによく似た言葉があったような、、、気がした。

 

そう、そうだ。

 

自分の感受性ぐらい 自分で守れ ばかものよ」(茨木のりこ)

 

(抜粋)

 

駄目なことの一切を

時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄

 

自分の感受性くらい

自分で守れ

ばかものよ

 

4月21日

昨日は、結婚記念日だった。

 

昨日、日本は殺傷兵器を輸出できる国になった。

南丹の事件の詳細を追う報道ばかりがなされているあいだに、さらっと、殺傷兵器を輸出できる国にしてしまったひとたちよ。

ひと?ひと?なのか。

一昨日は、M7.7の地震が東北地方を脅かした。

津波警報で震撼としているうちにも悪だくみは進められていた。

 

ウワベだけのことは沢山ある。

綺麗ごとですまないことも沢山ある。

平和国家といいながら、そうはいかないことも沢山ある。

でも、ひとつくらいは綺麗ごとを守ったままでもいいんじゃないか。

 

時代が変わった、というのはどういうことだろう。

国際情勢が危機的状況だから、それに適応しなければいけないということ?

 

もはや戦後ではなく、戦前になったのだと、あのひとは言いたいのだろうか。

 

いままでで最悪の結婚記念日だ。

明確に、日本が人を殺す兵器を輸出することを決めた日。

 

錦織神社について

「ばけばけ」の錦織さん繋がりで、以前に書いた原稿をアップします。

お読みくだされば嬉しいです。

 

 

歴史的建造物と詩歌(1)「錦織神社」(にしきおりじんじゃ)

                    

かつて爾五里天王または水郡天王宮と呼ばれていた当社は、江戸時代末期まで神宮寺の別当金輪寺と併存していた。神仏分離によって寺は廃絶し、明治四十五年に錦織神社に改められた。

河内国西南部の当地は、古来、渡来人の集住した先進地域で、古代創立と伝えられる当社の境内から平安~鎌倉時代の古瓦が出土している。

錦部(にしごり)郡の名がみえるのは、『続日本紀』の文武天皇三年(六九九)三月九日条で、次いで天平神護元年(七六五)十二月十九日条には、従八位上錦部毘登石次・正八位下錦部毘登大嶋・大初位下錦部毘登真公ら一族二十六人に錦部連を賜姓したことが記されている。錦を織る技術に通じた錦部連が居住し、氏族名から郡名が生まれたと考えられている。

「錦織」は、現在、正式には「にしきおり」と読むとのことだが、前述のように、古くは「にしごり」であった。地元では「にしこり」「にしこおり」「にしごり」と呼んでいる。

当社については、七月ごろにご紹介する予定だったが、当社と和歌との関わりについて大変興味深い例があること、また、最近巷では、プロテニス界で活躍中の錦織選手に因んでこの神社が注目されていること、などから初回に取りあげることにした。

 当社は、本社本殿と摂社春日社本殿および摂社天神社本殿が、国指定重要文化財となっており、特に正平十八年(一三六三)建立と伝えられる本殿は、総檜皮葺の三間入母屋造りで、漆、丹塗、彩色が美しく施されている。屋根は、千鳥破風と軒唐破風をもつ最古の例で、棟を身舎(もや)中央ではなく前方に送って、屋根を大きく見せるという稀有な技法が見どころである。(「棟の前方への送り」は、社殿の正面観を重視する意匠の一つという。)

 さて、「歌」に特別の思いのあるかたは、ぜひ本殿の「欄間」に注目していただきたい。ここに「梶の葉に筆」の彫刻がある。「梶の葉に筆」は、法隆寺の子院である北室院本堂(明応三年)の木鼻にも見られるが、錦織神社のものは最古の実例である。

古来、七夕には「梶の葉」に歌などを書き職女星に供えた。冷泉家の乞巧奠(きっこうでん)すなわち「七夕」の行事の飾り付けにも、梶の葉が使われているという。「梶の葉に筆」の主題は、まさしく七夕に因んだものである。

「梶の葉」で平家物語の一場面を思い出される方も多いのではないだろうか。平家物語(覚一本)の「祇王」の段の、仏御前が祇王たちを訪ねる場面は、次の一文で始まる。

 

かくて春過ぎ夏闌けぬ。秋の初風吹きぬれば、星合の空をながめつつ、天のとわたる梶の葉に、思ふ事書く比なれや。

(覚一本『平家物語』注※)

「星合」とは牽牛星と織女星が逢うことであり、「天のとわたる」は『後拾遺和歌集』所収の、

 天の河とわたる舟のかぢの葉に思ふことをも書きつくるかな                    

                       上総乳母

という一首を指すという。また、これを本歌とした次の一首も有名である。

  たなばたのとわたる舟の梶の葉にいく秋書きつ露の玉づさ                

                (新古今三二〇)藤原俊成

いうまでもなく「梶」は船の「楫」との掛詞で、天の河を渡る舟の「楫」のこと。地上の人々の願いが、星々の間を漕ぎ行く船にのって天の職女星に届けられるのだ。優雅でかつ雄大な空間の広がりを感じる。錦織神社の欄間に、いにしえの星合をおもうことができるのである。

それにしても、なぜ、河内国の西南に位置する当社の欄間に貴族的な雅を思わせる「梶の葉に筆」の彫刻が施されたのだろうか。

当社の屋根の檜皮葺に関しては天王寺の檜皮大工によるとの記録があるが、本殿はいかなる大工が関与したのかを明らかにする史料は見いだされていない。ただし、貴族的主題を採用する趣向は、これが文化的先進地帯の大工(天王寺流大工か)によることを推測させる。

また、「星合」すなわち「七夕」の由来のいくつかを辿れば、どれも機織りとは縁が深い。当地が、かつて織物を生産する渡来系の工人集団である錦織部がおかれたところであることを考え合わせれば、「梶の葉に筆」の意匠に託された思いが想像できる。ただ、古代創立以来、現社殿が建立された十四世紀に至るまで「機織り」についての特別な思いがあったのかどうかを詳らかにする史料はない。

いずれにしても、「梶の葉に筆」は、願いや思いを歌にして星に託すという皇族貴族の行事への憧憬のあらわれであるとともに、やがて民衆に浸透し根付くという文化の流れの中に位置する興味深い彫刻である。

錦織神社

なお、現在の欄間の「葉」は実際の「梶の葉」とは形状を異にする。これは、風蝕や欠損によって彫物の原型を見極めることができず、「梶の葉」であることが覚束ないまま彩色修理されたためであろう。

 

《注※》ただし読本である「延慶本平家物語」や「源平盛衰記」には「星合」の記述はない。語り本である「覚一本」や「百二十句本」では「星合」が、ドラマティックな場面展開を予見している。

 

《追記》錦織圭氏は島根県松江市出身とのことで、河内の「錦織」との関連はわからない。しかし、『続日本紀』和同四年(七一一)閏六月条の挑文師(あやとりのし…律令制で、綾部司に 属し、錦・綾・羅などの製法を教授した職)を諸国に遣わして綾錦を織ることを教習させ、翌年には、出雲を含む二十一か国に命じて綾錦を織らせている、という記録は、錦織姓に照らして興味深い。

「時」

時は今雨がしたしる五月かな     

 

天正10年(1582)5月 明智光秀作

 

憲法改正の「時」が来たと意気盛んな声を聴いて、この句を思い出した。

 

愛宕百韻(愛宕山で光秀が催した連歌)の発句とされる。諸説あるが、織田信長に反旗を翻す決意と謀反が成功し天下をわが掌中に、という願いが込められているという。

 

その願い虚しく、光秀は滅びた。

あっけなく、滅びた。

 

時は今、ではなかったのだ。