TokoTokoChihoChiho’s diary

短歌と短文、たまに長文、書いてます。りとむ短歌会会員 りとむ短歌会ホームぺージ https://sites.google.com/view/rtmtankakai/

短歌を楽しむ会

身近に歌を詠んでみたいという人が現れたので、「とりあえず57577のリズムを感じながら詠んでみてね。それから一緒に推敲しよう」と言ったが、無理無理!と仰る。どんな感じで詠むのか、手ほどきだけでもお願い!ということなので、じゃあミニ短歌講座を・・・ということになった。

 

きちっと始めたかったので、公民館の一室を予約した。もちろん営利目的ではないから無料です。でも、5人以上の使用でないとダメという。よし、5人以上、つまりあと3人集めよう!と即ちらしも作って、知り合いに配ったり、LINEでお知らせしたりするのだが、「頑張ってね」という励ましはいただくものの「参加しますよ」はない。

(ああ、ジンボウがないのかも。辛抱も足りないほうだし。。。)

 

あと三日ほどで3人集められるだろうか。集まらなかったら、今回は仕方がないといってもらえるとして、次回からはお部屋を借りるのは無理だろう。二回目から参加しますよ…と言ってくださった人もいるのだけど。

 

9月25日の午後3時から、ほんの1時間ほどですが、短歌についての初歩的な話をします。場所は吹田の北の方です。

興味のある方はご連絡くださいね~。

黒酢ハチミツ

※昨日で障害者支援員としての仕事を辞めました。

 

6年半ご苦労さま!と、職場の皆さんがお花をくださった。これからはボランティアとしてよろしくお願いします、と言って帰宅した途端、雷雨。雨が上がるか上がらないかのときに緊急地震速報。。。なんと無慈悲な。


今日地震が起こり、イオンモールが爆発するなんて、誰が予測できただろう。一寸先のこともわからないけど、怖い怖いとじっとしているわかにもいかないと思いつつ、帰宅した娘を連れて買い物に行った。
買い物を終え、荷物を抱えて、駐車場に止めていた車に乗り込んだら、娘がワイワイ!!と騒いだ。
(ん?なに?ああ、そうか・・・)
さっき娘の所望で買った黒酢ハチミツの小さなパックを飲みたいらしい。

はいはい・・・とパックにストローを指して渡したそのとき、駐車場の坂を逆走してくる車が見えた。おいおい!と思ったので、プッとならして(逆走だよー)と手を回転させたのだけど、ドライバーは「ん?」と怪訝な感じでうちの車の前を通過してしまった。駐車場の中は一歩通行なので、そのまま進んでも入口に突き当たる。どうするんだろう・・・どこかのスペースで反転してくるかかな、慌てて走ってこっちにぶつかって来ないでよと、ゆっくり発進した。すると、後方で、くだんの逆走車と入場してきた車がぶつかっているのが見えた。軽くあたっただけで、怪我はないようだったが。

 

あぶないねえ・・・と娘に声をかけたときにはっとした。
娘が黒酢ハチミツを飲むというアピールをしなければ、もう少しはやく出口に向かって走り始めていた。ぶつかってたのはうちの車だったかもしれない。いや、そうに違いない。
そうなんだ。
今日のわたしを守ってくれたのは、どうやら、チイ(娘)と黒酢ハチミツ。
そういうことです。
ありがとう。チイさんと黒酢ハチミツ。
そういうちょっとしたことが 人生の分かれ目になるのかもしれない。今日は良い方に転がったけど、いつもそうとは限らない。
無事に生きてることって、奇跡だな。やっぱり。 

想像力の欠如なんですよ・・・

NHKBSアナザーストーリーズで連続企業爆破事件を取り上げていた。

 

その当時、高校生だった私は、数学(が、とてもとても苦手だった(-_-;))の個人教授をしてくれた大学院生のMさんをけっこう心の支えにしていた。Mさんは、なにを隠そう(というほどのことではないが)、私が通っていた幼稚園の園長先生の孫で、年長組の時の担任の息子さんだった(つまり、園長先生と担任の先生は母子関係)。

 

なので、高校生になってから、かつて通っていた幼稚園の一室で、Mさんに数学と化学なんかも教えてもらっていたのである。なかばあたりで園長先生やもと担任である母上がお茶とお菓子を運んでくださったり、とまあ、けっこう楽しい勉強タイムだった。

 

Mさんは北海道大学を卒業後、大阪市内の大学の院生となり、化学の何かはわからないが、研究しているということだった。ちょっと布施明似で、ある日「似てますね」なんていうと地味に喜んで、「実は布施明が好きでコンサートにも行く」と白状した。研究しか興味ないという雰囲気だったから、これはかなり意外なことだった。そして、何かのはずみに「機動隊に石を投げたことがある。若気のいたり」と苦笑いした。

 

化学の研究者、機動隊、ん?反権力?なんて言葉が頭中を駆け巡り、連続爆破事件のあったころ、つい「先生、あの事件とか、どう思います?」と訊いてしまった。言った後でしまったと思った。なんだかとても失礼なことを訊いてしまったようで。

 

だがMさんは布施明のごとく麗しい声で、それはそれは冷静に「あれね、あれは想像力の欠如です。」と答えた。

曰く・・・

「爆弾闘争の巻き添えになる人がたくさん出るだろう。なんの罪もない、闘争にはまるっきり関係のない人たち。巻き添えになった人たちには家族がいるだろう。その家族が背おってゆく苦しみとか、そういうことに思い至れば、あんな馬鹿なことはしないものだ。・・・」

 

と、もっといろいろ話したような気はするが、記憶にしっかりと刻まれたのは「塑像力の欠如」という言葉だった。

 

ひとつの心無い事件によってまき散らされる苦しみ怨み、そしてその種。

その恐ろしさに思い至るということがないものによって起こされた事件。

 

そしていまや、権力者に「想像する力、先を読む力」が欠如していると思う。

それがとても恐ろしい。

 

父は、水戸黄門が好きだった。

報道1930を見ようとして、夫がBSにしたら、水戸黄門さんご一行がいらした。

 

そういえば亡き父は「水戸黄門」が好きだった。関白志向だったから、あの最後の「このもんどころが目にはいらぬかぁ・・・」で皆がひれ伏すシーンが好きだったのだろうと思っていた。が、そればかりではないかも・・・という気がしてきた。

今夜は、長い間会えなかった母と息子がようやく会えたという話。

亡き父は、瞼の父というのを知らない。「物心ついてからは会ったことがない、顔も声も知らない」と言っていた。母によれば、父は晩年、瞼の父に「会いたかった」と言っていたらしい。風の便りに岐阜のほうにいるらしい・・・会いに行こうかなどと。

 

「水戸黄門」には、会えなかった親子が再会するという話が多いような気もする。

 

いつか、会えるかもしれない。

そのときは、どんなふうにふるまえばいいのだろう・・・

何をいおうか、、、何を訊こうか。。。

 

そんなことを考えながら、「親子もの」を見ていたのかもしれない。

 

かくいう私は、父とは仲が悪く、あまりやさしい娘ではなかった。そんな私が、ふと父を思い出すのも、やはり親子の縁ゆえか。

 

父方のおじいちゃんはどんな人だったのだろう。ちょっと気にはなる。

これも目に見えぬ縁ゆえかな。

 

しょうがない?ことではない!

崩れたる石塀の下五指ひらきゐし少年よ しやうがないことか  

                  竹山広『眠つてよいか』

 

太平洋戦争末期、沖縄が最前線となり多くの島民が犠牲になったことを「しょうがない」と最近、発言した政治家がいる。

こういう輩は、もう何をいっても変わりようがないのだけれど、「しょうがない」と政治家に言われ「しょうがないなあ」と私たちが思ってしまったら、それは犠牲になった多くの命に申し訳ない。そして、この先、私たちの命が軽んじられることになっていくに違いない。

 

竹山広の一首は、2008年の久間章生防衛大臣の〈原爆しょうがない発言〉への問いかけとして知られている。この一首を先頭に計九首の結句が「しやうがないことか」である。慟哭を身の裡に封じ込めた呟き。これが繰り返される。

 

平気で、正気で、平然と、「しょうがない」などという人間の本質を見極めなければいけない。人の命を軽んじる政治家は、自分以外の多くを生贄にしても平気な政治家だと思う。

 

 

 

美輪さん「イデオロギーのない歌手なんて・・・」

美輪明宏さんは多くの名言を残しておられるけれど、「イデオロギーのない歌手なんてティッシュペーパー」と仰っていたのを、一連の訃報によって知った。

(その後さらに調べたら、「外国ではそういわれるのよ」ということだった)

これは、歌手だけではなく、さまざまな立場のひとに当てはまるのではないか?

 

私などはつい熱くなるので、感情の表出しすぎた歌はよくないと指摘されることもある。けっこうある。「歌を詠むことによって世の中を変えようなんて、歌は元来そういうものではない」と公の場で指摘されたこともあった。(別に変えようとか変えられるとか思っているわけではない。私の傍にやって来た言葉を歌にしているだけだ。)

 

兎に角もう人生を半ば以上、ん?三分の二以上?過ぎて、「そんなものは歌じゃない!」と言われてもかまわない、と、開き直った。

 

歌じゃない!と言われても良い。表現したいことを表現しよう、降りてきた言葉を歌にしようと思う。この先、長く生きられたとしても、今まで生きてきた以上に長くは生きられない。だから、残りの人生は、自由な表現者でありたい。

 

「歌は下手だったけど、自由な表現者だったわね」と言われたら本望だ。

 

で、かなり命がけで、は言い過ぎだけれど、気合を入れて詠んでいます。このごろ。

 

〈りとむ7月号より〉

 

※その名を知らず※              

 

「あのひとにあいたいねえ」と言う母のあのひとの名をいまだに知らず

顎髭を褒めれば誇らしそうだったムスリム訊きけり「ニッポンスキカ?」

「独裁でもいいね」と言った美容師に切られた髪は切ってしまおう

あきつしまジャパンジャパンと熱狂し踊る撫子そよぐナデシコ

コピー紙の真中に赤い丸描いてスパンと切れば何という罪

ワケアリの林檎袋の内側でタンポポ色の鳥が羽ばたく

ぬばたまの夢のなかだけ話す子の話し相手と話してみたい

せいはくの子という言葉ありし日にふふんと歌った〈勇気りんりん〉

ガンバッテといわれるままに頑張れば頬を掠める風はつめたい

「あなたの名は〈直子〉のはずが…」と母のいう私はいったい誰なんだろう

 

閉じられた門

小さな子どもたちを狙った卑劣で残虐な事件から25年。

あの日の北摂はヘリコプターの音で引っ掻き回されているようだった。

あの事件を思い出すたびにいいようもない憤りと共に、割り切れない思いが甦る。もちろん、被害者家族の苦しみには及ぶべくもないけれど。

 

事件の前まで、地域の学校の門はいつも開かれていた。地域の人々がいつでも訪ねて来られるように、学校と地域との繋がりが密になるように、地域の人たちにとってかけがえのない場所であるように、そういう思いからなのだと聞いたことがある。

 

娘が地域の小学校の養護学級に入ったころ、学校の門は開かれていた。

同じ学齢で他の学校の養護学級に入った男の子がいた。幼稚園の時に知り合った彼は、自閉傾向で多動だった。

彼のお母さんと街で出会ったある日、彼女は小学校への不満を口にした。

「登下校以外は、学校の門を閉めてほしいとお願いしたのに、聞いてもらえない。多動だから、目を離すと何処にいってしまうかと、心配でならない。この前も抜け出したことがあった。たまたますぐに見つかったけど。」と。

校長先生は「地域に開かれた学校なのです。門は閉められません」と仰ったとか。

不安を抱えたままの学校生活がその後どうなったのかはわからない。

 

しかし、あの凄惨きわまりない事件後、ほとんどの学校は門を閉じた。見張り小屋を建てたり、ガードマンが配置されたところもある。

 

多動という障害をもった男の子の安全のためには閉じられなかった門は、多くの犠牲者を出して、ようやく閉じられた。

 

極悪は犯罪者。信じ難い犯罪を犯したものが最悪。

それは動かしがたいことだが、

時間差で、

「閉じられなかった門」と「閉じられた門」が存在したことが、記憶のなかで嫌な音をたてる。