TokoTokoChihoChiho’s diary

短歌と短文、たまに長文、書いてます。

なんだかすごいね、と思った歌。

穂村弘さんには二度お会いしたことがある。

一度目は、歌人集会?だったかな、の講演。

二度目は、2018年の与謝野晶子短歌大会。その歌会で偶然、穂村さんのクラスになった。ふわっとして、なんだかとても感じのよいひとだと思った。穂村さんはもうお忘れだろうけれど、私が他の参加者の歌の歌評をしたときに、「そういうふうに素敵に解してもらって、その歌がとても輝きましたね」なんて誉めてくださったし。フフ((⌒∇⌒)

で、その穂村さんのお歌だが、(昭和の三十年代生まれで、けっこう生真面目??な私にとっては)ぶっとんでいる。異論はあるだろうが、歌壇の筒井康隆か、と、私は思った。男女の営みめいた歌や排せつに関わる歌などは、良い悪いじゃなくて、私には、絶対むりむり。。。

 

あーでも、赤ちゃんのオムツの歌ぐらいなら詠える。老人介護の紙おむつの歌も詠んだことがある。かつて某派の大会に初めて参加し出詠したら「まさか、紙おむつが詠まれるなんて・・・」と重鎮らしき老婦人に眉を顰められた。まあ、しかし、おむつ程度でそれ以上は無理。詠んだことはない。

 

そんなこんなで、ユーズド市場で手に入れた穂村弘歌集『ラインマーカーズ』を、こんな歌は詠めない、これはわからない、こんような感性はない、、、と読みすすめていたのだが、やっぱりすごいわ、なんだかすごいね、と思って手を止めた。

 

星座さえ違う昔に馬小屋で生まれたこどもを信じるなんて    穂村弘

 

前後の歌から推して、クリスマス劇をさせられる幼稚園児関連のようだ。おおげさかもしれないが、これは、全〇〇〇ちゃんを敵にまわすような歌だわ、と思った。

 

私自身は特定の宗教を信仰しているわけではないけれど、シュタイナー教育に関わったことがあるので、娘の幼児期~10歳くらいまで、クリスマスには厳かにクリスマス劇をおこなったり、見に行ったりした。神様を絶対視している友人も多い。そのせいだろうか、ここまでは詠めない。でもそれは私の忖度に違いない。忖度して詠めないものがあるなんて、うた人としての限界なんじゃないかなと。。。

 

茶化しているようで、皮肉っぽいところも感じるけれど、これはとても鋭利な歌だ。地球上で起こってきた悲劇、いまも継続している惨禍は、これに関連してものが多い。何を信じるのか、見えない何を信じるのか、そのために、別の見えない何かを信じている人たちを許せない、認めない、排除する、それの繰り返しではないか。

 

でも、そんなことをもし穂村さんにお話したら、「いやあ、ふふん・・・」と はぐらかされて逃げられるような気もしないではない。

 

人間がチイサイ私は、これからも詠みかけて詠めない歌があるだろう。でも穂村さんの歌を思い出すたびに、「詠みたいことを詠もうよ」と自分を励ますことができそう、いや、そうしないとね。