歌集『風のおとうと』(松村正直)より
一つ一つは小さき花のさるすべり吹かれるままに坂をころがる
ねえ阿修羅まだ見ぬひとに伝えてよ今日ここにいた私のことを
喪主である母を支えてたつ兄を見ており風のおとうととして
松村正直
ふともれたつぶやきの中に「存在」の深みを思わせる・・・などという歌評は苦手なので、またいつも思い出ばなしを。
4歳半下の弟がいる。幼いころは、かわいいとは思っていたけれど、まとわりつかれ、ほかの友達と遊ぶときは邪魔になってよく意地悪をした。弟はいまだにそれを覚えているようだ。
同じ父母から生まれたのに、性格はまるで違う。自慢ではないけれど、姉であるわたしのほうが、几帳面で真面目でそこそこできた子どもであった。とはいうものの、太り過ぎで「どん、やな」いわれた私に比して、すらっとしてジャニーズ系の弟のほうが、まわりからちやほやされて育ったように思う。いわゆるビジュアル系の弟は、わたしの自慢であったが、それが悔しくもあった。
なので、外見では負けやけど、中身で勝負や! とも思っていた。
思春期のころから、弟は、少し不良っぽくなった。世の中の既成概念にはとらわれないような、いわゆる風来坊になったのである。
その弟を真似したわけではないが、私も、真面目な女子学生ではなくなった。家を出て、勝手に暮らし始めた。オーソドックスなおじょうさん、から、できるだけはなれたところにいきたかった。ふつうの結婚など考えもしなかった。子どももいらない、自由に暮らそうと思っていた。
そんなある日、弟と会ったときに、なぜか、「子どもの欲しい人は、体外受精をして云々・・・」という話になった。
「費用もかかるし大変らしいよ。50万とか100万とか、そこまでしてねえ・・・」という私に、少しむっとして弟が言った。
「それくらいかかっても、値打ちのあることやと思うわ。命やろ。命を授けてもらえるんやろ。そら、すごいことや。」
ああ、負けたわ・・・と思った。人間の格というのか、そういうもので、だろうか。
なによりも、命の重みをいうものを、深く感じることができるということで、
そのときから、わたしは、風来坊の弟をリスペクトしている。