TokoTokoChihoChiho’s diary

短歌と短文、たまに長文、書いてます。

どんなものにでも(原題:心から心へ)

カルチャーラジオ「文学の世界」(3月18日放送)で拙歌集をご紹介くださって以後、さまざまな反響があり、その中に、「娘さんが幼い時から(あなたは)歌を詠んでおられたのですか」というお尋ねがありました。

 

残念ながら、歌を詠むようになったのは、娘が15歳くらいのころです。ですからそれ以前の歌は、当時のことを思い出しながらということになります。が、実は、けっこう事細かに文章として残していました。娘の障害の程度をいうものを、学校の先生や学者さん、お医者さんに尋ねられた折に、よどみなく答えられるようにするため。そして、なによりも、私は、書くことが好きでした。書くことでいくらか冷静になることもできた。また、子育て関係のミニコミ誌の編集に携わるようになったので、その冊子に自分の体験談を載せているうちに、プロのライターかエッセイスト、はたまた小説家になれないだろうか、なんて、大それたことを思うように・・・(;'∀')。

 

誘われてすぐに短歌を始めたのも、言葉に対する感性を養えるのではないかと思ったからです。ですから、歌を詠みながら、こっそり短編小説のようなものを書いていました。そのうちの一作品が、人権ストーリー2007で入賞した(大賞ではありません(笑))、次の作品です。

 

タイトルは「どんなものにでも」。でも原題は「心から心へ」でした。これが、NHKの歌のタイトルとかぶっていたので、むりやり、「どんなものにでも」と変更したのですが、「心から心へ」がしっくりきます。

 

カルチャーラジオ「文学の世界」でお取り上げくださった 

自閉児に心はないといふ学者の心はどこにあるのだらうか 

が、まさにこのショートストーリーに添うものだったので、このブログに掲載することにしました。賞をくださった(公財)人権教育啓発推進センター の許可もいただきましたが、著作権はあくまで(公財)人権教育啓発推進センター にありますので、無断転載はできません。どうかご理解ください。

 

読み返すと、小学校でのレポートを小説にしたという無理矢理感が否めません。でも、拙歌集をお読みくださった方には、腑に落ちるところが多いのではないかと思い、押しつけがましいのですが、ご一読いただければ幸いです。

 

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「どんなものにでも」

 

(また四月…か)と、れなちゃんのママは思った。

毎年やってくる新学期というものが、ママはあまり好きじゃない。そのたびにクラス替えがあって、担任が変わる。クラスの子どもたちも変わる。それはママの娘のれなちゃんにとって大変なことだ。

 

れなちゃんには「自閉傾向」という障害がある。まわりの様子が変わることにとても敏感だ。まわりの変化が、れなちゃんの耐えられる限度を超えると、れなちゃんにはもう何がなんだかわけがわからなくって、大声を上げたり、自分を傷つけたりする。れなちゃんは話すことができないから、何が気に入らないのかを言葉で訴えることができない。泣きながら我慢するか、自分の腕に噛みつくか、手当たりしだい、物にやつあたりするか、しかない。そんなれなちゃんの辛さを一番身近で感じるのがれなちゃんのママだった。

ところが、五年生に進級したこの四月は、れなちゃんの様子がちょっと違う。学校に通う道すがら、ほのかに笑みなど浮かべている。ときおり、クフフ…と思い出し笑いもする。今までと何が違うのだろう。ママは首をかしげた。始業前と放課後、よく廊下でギターをかき鳴らしているアンコ型の荒井先生が気に入ったの? それとも、担任の長野先生が、毎日のように、学校の正面玄関で「おはよう!」って出迎えてくれるのがうれしいの? それとも、それとも…いったいなんだろう? まわりの様子を注意深く眺めながら、ママは登下校に付き添った。

学校までの上り坂は、れなちゃんの気分や体調によって楽しくも辛くもなる。徒歩十五分の道のりのほぼ半ばから、学校裏の雑木林を取り込んで作られた公園を挟んで、道は二手に分かれる。れなちゃんとママは、登校のときは東側の道を通る。ママはこの「朝日のあたる道」が大好きだ。お天気に恵まれ、れなちゃんの体調がよくて、その足取りが軽いとき、ママは、朝日に照らされて公園の土手に映る二つの影を確かめながら歩く。大きな影が小さい影を牽いて動く。土手の雑草に溜まった朝露がきらめく中を、連なった影が進む。れなちゃんの身長は中学生並みで、自分と変わらぬくらい大きくなったと思いがちなママだけど、影はくっきり、大と小に、ふたりを親子として映し出す。ママは、この影に吸い込まれていくような、そして、そのまま時間が止まってしまうような感じが好きなのだ。

 

下校時は西側の道を通る。緩やかな坂を下りながら、クラスメイトたちがひとりふたりと右手に広がる団地の中に消えていく。「さようなら、また、あしたね」を繰り返すママに合わせてれなちゃんは手を振る。でもその手は誰に向かって振られているのかよくわからない。れなちゃんにとって手を振ることは、ひとつの決まりごと、つまり、れなちゃんの中で決められた行動パターンなのだ。でもね、最近は何となく人を区別しているみたい。れなちゃんに特に優しくしてくれる子をとても意識していて、その子が手を振ると、パタパタパタパタと、強い風に旗がなびくようなすごい速さで、ちぎれるんじゃないかと思うくらい何度も何度も手を振る。これは、人に関わろうとする気持ちが、もともと少ないれなちゃんにとっては、飛躍的な進歩だった。ママはそれがうれしくて、れなちゃんと一緒になってパタパタパタパタ、れなちゃんがやめるまで手を振り続けた。

 

ゴールデンウィークを過ぎた頃、れなちゃんの笑顔はさらに増えた。何が楽しいのかわからないけど、涙よりも笑顔のほうがいいに決まってる。ママにとっては、大変「ありがたいこと」だった。何か楽しいことでも思い出すのだろうか、れなちゃんが「クフフ、クフフ」と笑うたびにママはとても幸せな気分になった。

 

そんなある日、れなちゃんを教室まで送ったママが、帰ろうとして、廊下かられなちゃんに向かって手を振ったときだった。さわさわと風が流れて学校裏の雑木林の匂いがした。背後に動きを感じて振り返ると、すらっとした面長の男の子が、口元をきりりと結んで、ママの前にすっくと立った。色白で切れ長の目もと。淡い緑のTシャツがよく似合っている。誰だろう、転校生? 戸惑うママに、彼はペコリと頭を下げた。そして、「これ、あげる!」と手を差し出した。少し土のついた手のひら、その真中に小さな緑色が見えた。

(葉っぱ? クローバー? 四つ葉の…)

幼い葉は朝露の湿り気を含み、微かに震えている。呼吸をしているみたいに。いや、震えているのは彼の手だった。彼はそれを自分の手かられなちゃんのママの手に移すと、さっと教室の奥へ戻っていった。 ママの「ありがとう」は子どもたちの話し声にかき消されてしまったのか、彼は振り向かない。そのあとほんの一瞬、手のひらのクローバーに目をやったばかりに、ママは彼の姿まで見失ってしまった。それほど広くもない教室の隅から隅までを見渡したが、彼の姿は見当たらない。ママがキョトンとしていると、ほどなく、朝のホームルームの始まりを告げるチャイムが鳴った。隣のクラスからは、ギターの音色に合わせて子どもたちの歌声が聴こえてきた。

―こころはどこにあるんだろう 

むねのところに あるのかな 

あたまのなかに あるようで…―

れなちゃんのクラス担任の長野先生もやってきて、ママに微笑んで目礼すると教壇に立った。ママは仕方なく廊下から教室に向かって、子どもたちみんなに挨拶するかように数回手を振り、その場をあとにした。

 

 それから数日後の朝、れなちゃんが席に着いたことを見届けたママが、教室に背を向けたときだった。後ろから、「お母さん!」という強い声に呼び止められた。れなちゃんの担任の長野リツ先生だった。思いつめたようにきゅっと結ばれた口から、「お母さん、宿泊学習にれなちゃんを参加させないって本当ですか?」という問いが放たれ、廊下じゅうに響いた。

「はい。申し訳ありません…」

ママは神妙に頭を下げた。宿泊学習は二週間後に迫っている。

「連絡帳、読みました。でも、納得できません」

長野先生の表情が険しい。ママはもう一度「申し訳ありませんが…」と頭を下げて、連絡帳に書いたことをなぞるように話し始めた。

「先生もよくご存知のように、れなはまだ自分の思いを言葉で伝えることができません。特に、始めての場所では特に緊張します。突然パニックを起こして先生やクラスのおともだちに迷惑をおかけするかもしれません。今までにもありましたよね。うまく気持ちを伝えられないときは、まわりの子供たちを叩いたり大声を上げたり…。それはまわりの子供たちとっても、きっと騒いでいる本人にとっても辛いことです。排泄の心配だってあります。まだ、お漏らしやおねしょをすることがあるんですよ。もちろん、こんなことは乗り越えていかなければいけないことです。でも、他の親御さんたちの気持ちだってあります。これ以上の迷惑はかけたくないんです。それに、まだれなは十一歳…。いろんな経験を積み重ねないといけないとは思いますが、あまり無理はさせたくないんです。ですから今回は、学校でお留守番ということにしていただけませんか。私だけではなく、夫もそうしていただきたいと申しています」

長野先生は、うんうんとママの言葉にいちいち頷きながら、また口をぎゅっと結んだ。それからニ、三度首を振り、「でもね」と言ってママを見つめた。

「お母さん…、お母さんのお辛い気持ちはよくわかります。お母さんを追い詰めるような気持ちはないですが、でも、どうか聞いてください。昨日は連絡帳を読んでびっくりして、とにかく、急いで、五年生の担任団で話をしました。夜八時を回るまで。結論は、絶対一緒に行きたい・・・です。もちろん、どの先生も。どの先生も、『来てほしい』と言ってます。そして私が一番強くそう思ってます。病気や怪我で行けなくなったというならともかく、迷惑をかけるかもしれないから…なんて理由になりません。どうしてそんなに遠慮するんですか? それに、れなちゃんが辛い思いをしないように最善を尽くすことも約束します。私の言葉が信じられませんか。私は、クラス全員で行きたいんです」

長野先生の目が潤んでいた。ママも泣き出しそうなのを堪えているようだ。ママには、長野先生の気持ちが痛いほどわかった。でもママにも言い分があった。

「れなは確かに先生のクラスでお世話になっています。でも、先生、れなは本当は・・・、本当の在籍は養護学級です。先生のクラスは通級学級なんです。だから…」

「だから?だから、どうなんでしょうか?ええ確かに、書類上では、れなちゃんは養護学級の在籍です。でも、そんなこと、在籍なんて意識したことはありません。れなちゃんは、うちのクラスの一員です」

長野先生は少しむっとしたような感じだった。

「ありがとうございます。そういっていただけるのはほんとにありがたいと思っています。でも、やっぱり、ほかの子どもたちとは立場が違うと思うんです。確かに子どもたちはよくしてくれます。親切です。でもどこかに無理があるんじゃないかと…。大人がこうするべきだ、と。つまり障害のある子には優しくすべきだということを押し付けてるような気も…。クラスの一員ではなく、特別な存在なんじゃないだろうかって、思うときがあるんです。れなのことを、れながここにいることを、我慢してくれてるんじゃないかって。だって、れなが暴れたって大声をあげたって、子どもたちは何もいいません。文句ひとつ言いません。でも、それはとても不自然です。ね、先生。そうは思われませんか? 本当は『迷惑な存在』かもしれないって…。この学年のみんなが楽しみにしている宿泊学習のときまで、子どもたちみんなに、そういう無理はしてもらいたくないんです」

長野先生の勢いに圧倒されながらも、ママはママなりに、必死でれなちゃんの母親としての思いを伝えようとしていた。ママの言葉に、長野先生の表情が少し曇った。先生にだって、ママの気持ちがわからないわけではない。でも先生は引かなかった。「れなちゃんにとって通級学級であろうと、れなちゃんはこのクラスの一員です」ともう一度繰り返し、ママの目をじっと見つめた。

「ねえお母さん、いい加減、その『迷惑』という考え方はやめてくださいませんか。ちょっと振り返ってみてください。れなちゃんは入学してから今まで、何をしてきたんでしょうか。入学したときのままですか? そんなことはないですね。れなちゃんはこの学校に入学してこれまで、みんなといろんなことを体験してきました。勉強してきました。ちょっと大げさな言い方かもしれないけど、一緒に生きてきたんですよ。そうでしょ。何回もクラス替えはありましたけど、この学年のみんながれなちゃんのことは知ってます。一緒にやってきたんですよ。四年間も、です。そりゃあ最初は大変だったでしょう。れなちゃんもそしてまわりの子どもたちも。迷惑だと思った子もいたかもしれません。嫌だと思ったことだってあったかも。でも、いつのまにか一緒にいることが普通になった。自然になったんです」

「自然、ですか?」

「そう、自然なんです。一緒にいることが自然なんです」

先生はきっぱりとそういうと、一呼吸ついてまた話し始めた。

「長い人生の中で、一泊二日の宿泊体験なんて小さなことだと思われるかもしれません。でも、そういう体験ってなかなかできないんですよ。今、このときでないと。私は思うんですよ。みんなと過ごした一泊二日の思い出が、これからのれなちゃんにとって、それから、クラスのみんなにとっても宝物になるんじゃないかって。いえ、きっとそうなりますよ。ねえ、お母さん。れなちゃんは、これから先の人生をね、みんなと、生きていくんですよ。お父さんとお母さんとれなちゃんの三人だけで生きるんじゃなくて、この社会で、社会の一員として、みんなと生きていくんです。宿泊学習はその第一歩だと思いませんか? クラスの子どもたちはみんな、れなちゃんも当然一緒に行くものだと思っています。それがあたりまえなんです。昨日もみんなで相談してましたよ。宿泊学習での役割分担についてです。れなちゃんが楽しんでできることはなんだろうって、一生懸命考えてましたよ!」

「はあ…。はい、でも…」

ママは長野先生の迫力に圧倒されて返す言葉が見つからない。ママが黙りこむと、先生は畳み掛けるように言葉を続けた。

「お母さん、ご心配なのはよくわかります。それで、私たち担任団は、どうしたら安心して参加してもらえるだろうと、考えました。それでね、お母さん、どうでしょう…。お母さんが、一緒に来てくださいませんか? 幸い、バスは一クラスに一台割り当てられています。うちのクラスは三十三人です。同行する看護師さんやヘルプで参加する他の学年の先生が乗っても、空席はたくさんあります。宿所のお部屋もあとひとつ余裕があります。その部屋に泊まってください。で、れなちゃんのことで、何か私たちではわからないことが起こったときや手の付けられないパニックで困ったとき、必ずお母さんを呼びますので、登場していただけませんか?れなちゃんに付かず離れず、そっと見守ってくださいませんか。だめですか? だめでしょうか? お願いします。どうか、いいですと、一緒に行きます、と言ってください…」

先生からくりかえし押し寄せる熱い波を押し戻し、ようやくママが、

「ありがとうございます。もう一度考えて見ます」

と言ったときだった。教室の方から歌声が響いてきた。ギターに合わせて子どもたちが歌っている。ギターを弾いているのは荒井先生だろう。

―こころはどこにあるのかな…  

みえないけれどきっとある…―

「先生、あの歌は?」

とママが聞いたとき、長野先生はいつもの穏やかな表情に戻っていた。

「NHKの『みんなの歌』で流れている歌ですよ。『ぼくのこころきみのこころ』いい歌でしょ! 子どもたちの希望もあって、五年生のテーマソングに決めたんです。だからほら、五年生の学年だよりの題名は “Heart to Heart”。この歌から思いついたんですよ」 

 始業のチャイムがなったので、ママは長野先生に「ありがとうございました。」と会釈をした。そして先生の「お願いしますね」といい念押しの言葉に微笑みながら教室横の階段を駆けおりた。

 

 その日の夕方、ママはれなちゃんと散歩に出た。頭の中で整理しきれないことがあると、ママはれなちゃんを連れて、ニ時間ほど、住宅地の周りを巡る並木道を歩く。抱っこしたり、バギーを押したりしながら歩いたときと同じ道を歩く。あのころより少し大きくなった木立の間をゆらゆらと歩く。もみじのようだったれなちゃんの手は倍以上になった。それは厚みがあってとても温かい。手を繋いで歩くうちに、その温もりがママを包み込んで、ママはだんだん心が軽くなる。まるでれなちゃんがママの苦痛を吸い取ってるみたいだ。れなちゃんは何も言わない。ママも何も話さない。でも手を繋いで歩くことがふたりの会話なのだとママは思っている。

 

徒歩二〇分ほどの駅前で少し買い物をして、家の近所にあるミニショッピングセンターまで戻ってきたころには、あたりは夕闇に包まれていた。疲れたのか、お腹が空いたのか、れなちゃんの表情が固くなり始めた。それを見たママが少し足取りを速めたそのときだった。夕闇の向こうから、風に乗って草の匂いが流れてきた。学校の行き帰りに漂っている裏山の草の匂いだ。ママはひとつ深呼吸をした。すると、背後にふと人の気配がした。振り向くと男の子がひとり、薄闇の中で微笑んでいるように見えた。「えっ!」とママは目を見開いた。四つ葉のクローバーをくれたあの子だ! ママの胸は高鳴った。

「あっ、きみだったの。ごめんね。このまえはお礼も言わなくて。えっと、名前はなんていうのかな? ほんとに、このあいだはありがとう。四つ葉のクローバーなんて、見つけるの、大変だったんじゃないの?」

男の子はその問いには答えず、少し寂しそうな眼差しでママを見つめた。

「散歩してるの?ねっ、僕も一緒に歩いてもいい?」

「ええ、いいわよ。でも、もう暗くなってきたけど、おうちに帰らなくて大丈夫?まだ 帰ってこないって、心配されない?」

「僕のうちは大丈夫。みんな遅いから」

男の子は、ママとれなちゃんの少し前を歩き始めた。そして、ときおり振り向いてはれなちゃんに笑顔を見せた。

すでに灯りが街路樹を照らし、春には似つかわしくない冷気を孕んだ風が流れてきた。ママはブルッと寒気を感じたので、「とにかく家に帰ろう。彼には、少し寄っていけばと誘ってみよう」と思った。男の子はふたりの家を知っているかのように、その方向へ歩いていた。ママはれなちゃんの機嫌がさらに悪くならないかと気が気でなかったが、当のれなちゃんは横目で男の子を見ながら、口元を緩ませている。「さっきの不機嫌はどこにいったのかな。へんなれなちゃん」とママが微笑みながら呟いたとき、男の子が急に足を止めた。

「おばちゃん、れなちゃんはいつからしゃべらないの」

「えっ?」

ママは訝しげな顔をした。れなちゃんは生まれてからずっと、言葉で何かを伝えるということがなかった。小学校に入学してからもずっとそうだった。だから今さらそんなことを尋ねる子はひとりもいない。

ママの様子を見て、男の子はちょっとバツが悪そうにうつむいたがすぐに顔をあげた。

「僕、去年転校してきたの。れなちゃんと一緒のクラスになったのも始めて。でも、こっちに住むようになってから、ずっとれなちゃんのこと見てた。夕方、たまに、れなちゃんとおばちゃんが散歩してるのも見てた。いつもれなちゃんは、なにもしゃべってないみたい。でもおばちゃんはれなちゃんに話しかけてたね。れなちゃんは黙ってる。どうして?って、見かけるたびに思った。どうしてしゃべらないんだろうって」

「そうだったの。れなのこと、気にしてくれてたんだ。そうね、れなはしゃべらない。どうしてなのか、おばちゃんにもわからない。でもね、しゃべらないだけで、心の中ではいろいろ考えてると思う。」

そう言ったとき、ママの胸の中であの歌が響いた。荒井先生のギターに合わせて、みんなの声が聴こえた。

 ―こころはどこにあるのかな

  みえないけれどきっとある―

「そう、心はあるよ。きっと。今もれなは隣で話を聞きながら、いろいろ考えてると思うよ。ごめんね。今はそれだけしか、わからないの」

「僕こそ、ごめん。わからないことを聞いてごめん。僕も思う。心はあるよ。さっきも僕のほうを見て笑ってくれた。それにおばちゃんと手を繋いでるときのれなちゃん、とっても楽しそう。きっと、心の中では大好きって言ってるんだと思う」

「そう思う? ありがとう。これからも見ててくれる?そしたら、れなのことがもっとわかるかもしれないから。よろしくね」

男の子はママの言葉に微笑んだが、その瞳は潤んでいるように見えた。 「何か悪いことを、気に障るようないことを、言ってしまったのかしら…」と、心配になったママは、彼を和ませようと一生懸命言葉を探した。

「ねっ、転校してきてどう? 今の学校楽しい?」

「うん、まあまあ、なんてね。れなちゃんが笑うと楽しいよ」

「そうじゃなくて…。ほかのお友達とは?先生は?」

男の子は、ちょっと考えこむような感じで、「ふーむ」と頷いた。

「おばちゃん、何かを心配してるの?」

「何も。どうして?」

「まわりのみんながどれくらい優しいのか、温かいのか、そういうこと気にしてない?ほんとのこというと、転校生の僕を無視する子もいるし、れなちゃんがそばを通ると避けるようにする子もいるよ。優しくしているようでも、それが嘘っぽい子もいる。いろんな子がいる。でもね。そんなこと、大したことじゃないよ」

「なるほど、大したことじゃないのね」

「そう。こっちが気にしなきゃいいんだ。気にしないでにこっと笑うの。れなちゃんみたいに。自分から心を塞いだりはしないんだ」

「すごいね」

「すごくないよ。長野先生だって、誰に対しても、いつもあったかいよ」

「うん。でも…」

ママは少し口ごもった。すると男の子は妙に大人びた顔でママを諭すような口調になった。

「長野先生のあったかさ、っていうより熱さがね、おばちゃんには辛いときがあるんでしょ。先生が一生懸命すぎて。そんなに世話をかけるのは先生に申し訳ないとか思って。でもね。いいじゃない。それも気にしない気にしない。先生もれなちゃんが好きなんだよ。だからあんなに熱くなるんだ。クラスのみんなもね。迷惑だと思うことはあっても、もしれなちゃんがいなくなったら、きっと寂しいって思うに決まってる。そういうもんだよ」

「そういうもんかな」

「そうだよ」

ふたりの顔から同時に笑みがこぼれた。

「四つ葉のクローバー、嬉しかったよ。あれはわざわざ探してくれたの?」

「うーん、まあ、わざわざでもないけどね。たまたま、見つかったから、おばちゃんに渡そうと思った。」

「れなのことを心配してくれて? 幸せになるようにと思って?」

「心配とか、そういうのじゃなくて…、れなちゃんがね、四つ葉のクローバーみたいだと思ったんだ」

「えっ?れなが四つ葉のクローバーなの?」

「そうだよ。だって、れなちゃんが笑うと、まわりのみんなもニコニコするよ。楽しくなるんだ。れなちゃんのような女の子はそんなにはいない。ぼくはれなちゃんに会えてよかったと思う。なんかね、幸せな気分になる。おばちゃんだって、れなちゃんと一緒にいるときは楽しいでしょ。だから、れなちゃんは四つ葉のクローバーだよ」

男の子はれなちゃんのほうに笑顔を向けると、れなちゃんの手を握った。そしてしばらく目を閉じていたが、まるでお祈りでもするように、れなちゃんの手を自分の胸のところに持っていった。

「おばちゃん、れなちゃんはね、行きたがってるよ」

男の子は目を閉じたまま言った。

「えっ?」と、ママが素っ頓狂な声を出すと、彼は目を開けてしっかりとママを見た。

「行きたいって、言ってるよ。宿泊学習に」

「えっ?わかるの?」

「おばちゃんにだって聞こえてるはず。おばちゃんにだってわかってるはずだ。れなちゃんは行きたいって言ってるよ。れなちゃんの心がそう言ってるよ。れなちゃんはまわりのお友達にあまり関心がないようにみえるけど、ほんとはとてもよく見てるんだ。みんながどんなことをしてるのか、とってもよく見てるんだ。それを見てることが楽しくて、みんながれなちゃんに何かしてくれることが嬉しいんだよ。ね、おばちゃんもそう思わない?」

ママはびっくりして、男の子とれなちゃんを交互に見つめた。ふだんは、他の人とほとんど視線が合わないれなちゃんなのに、今はしっかりと男の子の目を見ている。ふたりは向きあって、何かを交換するように、静かに見つめ合っていた。

「絶対に心はあるよ。あたりまえだよ。れなちゃんに心があるのはあたりまえ。心はね、どんなものにでもあるんだよ」

彼は少し息苦しそうな顔をしてそう言うと、突然れなちゃんの手を放し、歩いてきた道とは逆方向に駆け出して、やがて街路樹の向こうに消えていった。ママが追いかけようとすると、まるで男の子を隠すように、闇はさらに深くなった。

 

(あの子がいない…)

宿泊学習当日、集合場所の体育館でも、バスに乗り込んでからも、ママは真っ先に男の子の姿を探した。だが見当たらない。

「長野先生、去年転向してきた男の子は?」

「えっ、昨年の転校生ですか? 昨年は女の子が二人でしたけど」

長野先生は、ほんのしばらく不思議そうにママを見つめたが、すぐにクラス全員の名を呼び始めた。

「はい、三十三名、全員そろいましたね。ひとりも欠けなくてよかったぁ。じゃあ、出発!」

「でも、彼が…」

呆然とするママの顔を心配そうにれなちゃんが覗き込んだ。

 

出発したバスの窓から学校裏の雑木林が見えた。春から夏へと、日に日に生い茂る草むらが目に入ったとき、ママはふと手帳を開いて、ラップに包んだクローバーを取り出した。しばらく眺めていてあれっ?と思った。そして、またまじまじと四枚のうちの一枚の葉を見つめた。わずかに欠けている。小さな半円形の欠けが・・・、半円形、いや、よく見るとハート型だ。ラップに包む前にはこんなものはなかったのに…と、ふたたびじっと眺めたとき、クローバから二~三センチ上の方に黒い点が見えた。虫のようだ。クローバーについていた小さな虫が葉を食んだ後にラップの中で絶命したのだろうか。

「どんなものにでも心はあるよ…」

ママの耳元で、男の子の声が微かに響いた。 (了)

 

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