TokoTokoChihoChiho’s diary

短歌と短文、たまに長文、書いてます。

引っ越し(11)(以前のブログから)

『フィクションの表土をさらって』

                玉城入野 著(洪水企画)
 
 
読み応えのあるエッセイ集である。
北野武深作欣二の映画作品についての第一部。
島尾敏雄に関わる第二部では、福島の人々と著者と妻と、そして3.11が絡まる。
第三部は、著者の父・玉城徹との思い出が上質の歌物語のような趣を感じさせる。
 
私が手にしたキーワードは、故郷と縁、そして不条理。
さらに、創造された作品の中にある、ノンフィクションよりも現実に近い真実である。フィクションであるからこそ、その深みで、(制作者が思うところの)真実を語ることができる。と同時に、ノンフィクションとされる作品の虚構の部分を見極めなければならないとも思う。
 
 
ふと、著者が私たちに提示したかったのは、
「自分のなかに善きフィクションを想定してそれに向かうこと」かと思った。
だが、これは当たってないかもしれない。
 
*********
 
兎にも角にも、歌詠み修行中のものとして、
私の中に生まれたフィクションへの思いが、玉城徹の登場で短歌にも及んだ。
 
短歌は「具体」を入れよ、とよく言われる。しかし、「説明」になってはいけないという。読者があれこれ想像することによって広がりをもつような歌のほうがよいと・・・。そうして歌は、作者の手を離れ「読み手」のものになる。
 
だから、作者にとってはノンフィクションの歌であったとしても、「読み手」の感じ方、想像力によって、どこまでも広がり新たなるフィクションの世界を生み出す。
 
逆に、フィクションとして詠まれた歌から、読者が鋭い推理力で作者の真実を見抜くかもしれない。
 
これが、三十一文字の面白さ、というか、何につけても、フィクションとノンフィクションは、地底の水脈で繋がっているのだろう。水脈は、簡単に発見できるものではない。けれど、見ようとするのとしないとでは、大きな差がある。
 
さほどの洞察力はないが、せめて表土をさらうことを意識しよう。
 
今や、あったことがなかったことにされ、なかったことがあったことになってしまうような世の中だ。ぼやっとしてると、「ワタクシ」でいることさえできなくなるのだから。